世界で初めて戦争をなくすプロセスを説明する

日本は第2次世界大戦後、戦争をなくそうと決意した世界市民の理想を描いた国連憲章の精神を最も色濃く実現した平和憲法を持つ国ですが、昨今その憲法を改正し、平和へ向かう気持ちに逆行する動きがあることを憂慮しております。憲法の精神を忠実に実現するなら、戦争を無くすことができ、ひいては国防も成るのです。そのために全力を尽くすと決心を示した日本人としての誇りを堅持しよう。

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遅まきながら 拝見しました。

百田さんの原作なんですね。

向井さんのドラマの方を見たのですが、

いろいろ書きたいことはあるものの、あまりにマニアックな感想過ぎて受け入れられるかどうか。

一つ多くの人に勘違いがありそうな部分について

1特攻隊員の遺書について。必ずしも本心とは言い切れません。検閲の可能性もあっただろうし、それ以前に彼らは自分の本心を記すより、軍人としてどう書くべきかを考えるように教育されていました。しかし、その立場に立ったなら、死ぬ運命を受け入れた人なら、思うのは家族と国家の安寧のみであろうし、それについては本心だろうと思われます。

2特攻隊員は、突っ込むときに「おかあさん」などと叫んで突っ込んだとは絶対描かれたくなかっただろうということ。せっかく死ぬんです。国のために英雄としてそれにふさわしいかっこいい死に方をしたと書かれたいでしょう。敵前逃亡して背中から撃たれた兵士だって、上官は「勇ましく突撃してなくなりました」と家族に伝えるのです。死者を侮辱するような日本の軍記映画の描き方には反感を持っています。

3特攻に自ら進んで志願するものはいるか?多くが志願すると思います。かつてPKOが始まったとき、北海道と沖縄勤務のほかに、PKO参加について自衛隊員には希望を取ることになりました。PKOには8-9割の隊員が参加を希望したと認識しています。特殊な事情があるもの以外、全て希望したと考えていいと思います。

これはスポーツなど真剣に取り組んだ人ならわかると思うのですが、自衛隊はそれに加えたさらに特殊な雰囲気が充満しています。もちろん、そのように仕向けるわけですが、隊員の多くが、訓練などについて、むしろ苦しい訓練を求める傾向があります。大変な任務にむしろ進んで志願する傾向があるのです。これはやはりその場に立ったものでなければわからない感情でしょう。お花畑で花摘みしてる連中に口出せる世界でないことは確かです。

命が何より大事、と現在の人は多くが言いますが、江戸時代まで、いや、明治でも、まず自らの命より家族を守ることが大事であると言うのが一般認識であったと公言してはばかることがあるでしょうか?現代流に言うなら、長く生きようと思うな、よく生きようと思え、です。命を無駄に捨ててはいけません。しかし大切な目的のためには惜しまず使うほうが良いと思いますよ。

 4パイロットというものについて。戦場においてパイロットや士官は、何をおいても拘束監禁するか、かなわなければ殺すべきです。かれらは教育訓練に多大なエネルギーを要します。かれらは一度の戦闘を経るごとに貴重な存在となります。終戦まで生きて返してはいけない人材です。捕虜交換でも士官は断るべきです。もちろん下士官兵も先頭を経たものは貴重ではありますが、それは基本的に経験的なものです。教育には時間がかかります。パイロットは落下傘で脱出しても無防備ではありません。通常拳銃を所持します。脱出するパイロットについて、ジュネーブ条約に規定があったような気はしますが、混乱のうちに葬るのは戦術行動として適切な判断です。もちろん拘束を追及すべきですが。

5整備兵はもちろんですが、パイロットだって通常エンジンの異音には気づきます。整備兵なら、エンジンのシリンダーで何番目のシリンダーが爆発していないかまで診断できます。それほど特別な技術ではありません。エンジン音でわからないというのは未熟です。

航空機整備はもちろん整備兵にその責任はあるわけですが、最終責任はやはり機長、パイロットにあります。事前点検はパイロットの義務です。整備不良で落ちた場合も整備兵は責任をとることはありません。パイロットと運用会社が責任を取ります。それは車だって一緒です。そして、1ヶ月も訓練したパイロットなら、種類にもよりますがエンジン異音くらい気づけるはずです。気温が変わるだけで特に暖気終了までのエンジン音は変わるんです。命を預けるなら、ファンベルトの張り具合まで音で判断できるようになりたいですね。

6百田さんが書いているということで、ご存知なはずなんですが、ゼロ戦の21型から52型について、性能的には2割くらい馬力が上がり、5-10%速度が増しています。しかしこれ、特攻するには特記するほどの差とはならないと思います。ただ52型のほうが新しいというだけ。しかし52型は昭和18年正式採用です。開戦前なら生産体制も十分だったかもしれませんが、18年以降といえば作ってるのは素人。金属製の機体であればましという時代に入りつつありました。金属製の良い機体は本土決戦に備えて相当数確保されていたのです。鹿屋から特攻に毎日出撃するような時期、特攻にあてがわれていたものなら、新しい機体より古い21型のほうがむしろ信頼性は高かったかもしれません。特攻には着陸できないパイロットも参加させられていました。(うまくないというだけだとは思いますが。)機体だって離陸できて目的地まで飛べばいいという考えがなかったとは言えません。

ちなみに、エアレースに使用される飛行機の機体には軽量化のため布が使用されているそうです。ベニヤ板でも強度は十分ですね。