憲法に示された安全保障指針について---戦争に倦み切った世界中の人が理想とした世の中
ベトナムを訪れたとき、彼らと一緒に生活をして感じたことが一つある。
若者ではない。私より少し年上の人たちであった。
彼らの年代は、ベトナム戦争の混乱期に学齢期を迎えており、おそらく学校での勉強をあまりしていなかったのだと思われた。見ていると彼らの上司というのは私より若い人たちであった。
言葉が通じないので観察とまさしく感じたものでしかないのだが、農耕民族的な年長者が敬われる国であるが、彼らはそのようなことを意に介することも無く、幸せを満喫しているように感じた。
何なのかと思ったのである。一緒に暮らす仲間は変遷したが、感じる雰囲気は同じものがあった。彼らは、戦争が無い、理不尽な恐怖に晒されることが無いだけで幸せを感じているのだと感じた。戦争に倦むという状態になった人々にとって、戦争が無いことが幸せ。おそらく勝敗すら問題ではなかったかもしれない。
各国を回って、日本人に対する敬意のようなものを感じたのもベトナムだけであった。フィリピンでは敵意のようなものを見せる人はいたが、その人はフィリピンが始めて独立したのが日本軍の庇護下であったことも知らなかった。
ベトナム人のあの余裕のようなものは何なのかわからないが、思い返してみると、ベトナムはフランス、米国、中国と戦って追い返し、その昔はチンギスハンすら追い返した凄い国なのである。しかし、日本はさらにロシア、イギリス、米国、フランス、オランダと、絶頂期の欧米列強と中国を同時に敵に回して長期にわたり戦い抜いたうえ、かつてベトナムのように元を追い返した国なのであった。こんな国、アジアでは日本とベトナム、時代は違うがトルコやイランくらいのものではないだろうか。イランも最近までかなり突っ張って生きてきた。何気に中国は征服王朝が長い。
日本は1937年夏の盧溝橋事件以来、1945年夏まで、8年の長きにわたって戦争を継続していた。人口の一割を戦場に駆りだし、3%を犠牲にした。爆撃におびえ、わずかな配給で食いつないでいたのである。
そんな状況から解放された人々は、おそらくその厳しい生活にもかかわらず幸せを満喫したのだと思うのである。いえ、これはベトナムの人たちを見たところからの推測に過ぎないのですけど。日々おびえることの無い生活、日本人として、もう二度と戦争をしたくないというのは誰の心にもあった真実だったと思う。
日本は敗戦し、GHQの指導下にあったことは事実であるが、おそらくそうでなくても戦争を無くすように努力する方向に進んだと信じる。それは、当時の日本人の悲願であり、例外なく支持されたはずである。戦争に倦んだ人々が追求した理想が、先んじて完成した国際連合憲章に明文化されていた。戦争に倦んだ日本人もその精神を受け入れることに異存は無かったと思うのである。
憲法の前文については、前半部分で国家運営のあり方とやり方、後半部分で安全保障指針について述べられている。
具体的には、
国防方針
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」
国家目標
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」
実施要領
国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する
この崇高な理想と目的というものは、前文にちりばめられた国民主権、平等主義、平和主義等を指すと考えられるが、言葉が明確にこれというものを示していないので解釈の余地があるだろう。
安全保障方針としては、更に条文において国家がなすべき具体的行動が示されているのであるが、それが第2章である。
二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
憲法を読み解く上で、もちろん重要なヒントはここにあるので紹介すると
1 国権の発動たる 戦争と、武力による威嚇または武力の行使を
国際紛争を解決する手段としては放棄する。
2 陸海空軍その他の戦力は保持しない
3 国の 交戦権は認めない
ここに強調され、一貫しているのは、日本が国としてやらない、日本が国家として本来認められているものについて実施しない、放棄するとしている点である。
これに相反するような内容が前文にあるのだが、それが
「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」である。
平和主義を標榜する人は、国家として平和を維持することで達成するなんてことを言うようだが、70年の成果を見ればその非現実性は明らかといえる。むしろ冷戦後国際社会は攻撃的になってきている気すら私はするのである。
前文は積極的に国際社会の平和構築に関わることを宣言しながら9条では戦争について全否定なのである。これは相反するようであるが、思い出してほしいのが国連軍の存在なのである。
国際連盟態勢で第二次世界大戦は防げなかった。国際連合態勢の最大の特徴は国連軍の定義であろう。
前文に言う平和を愛する諸国民とか、平和を維持しようとする国際社会とは、国際連合態勢を言うと捉えることに異存がある人はいないだろう。
つまり、日本は戦争も交戦権も武力も放棄しますと、しかしその安全は国際連合が守ってくれると信じての平和主義で、日本はその平和構築活動に全力をもって協力します。と宣言しているのである。
どうであろうか?なぜか日本人の憲法解釈というのには身勝手な一国平和主義や、自衛権とか集団安全保障とか、憲法でまったく語られていない思想や言葉が飛び交っていて飛躍する方向がばらばらだからまったく違うことを言う人が出てくるのだが、上記理解と解釈ならば憲法に使用されている言葉に当時の国際情勢を重ねているだけで、異論を挟む余地は無いと思う。しかも現実的である。
つまり、この解釈どおりなら、国際平和の構築も可能であるし、日本もその国家をおかされることも無い。そして国家目標としている名誉ある地位も自然と得られるはずであった。
これこそが日本国憲法の安全保障指針であると信じる。
次回は理想は理想として、そこからずれてしまっている現実に対して、日本がいかにすべきかという考えについて述べたいと思う。